2013年4月18日木曜日

コリント信徒への手紙二 前半概要


■2013/04/18
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:コリント第二11:16−33

★メッセンジ

コリント教会では人間的な問題にあふれていました。派閥に分裂し自分はパウロ派、アポロ派と主張したり、姦淫の罪を犯したり、肉に負けてあらゆる悪事を行っていました。その中でも幾人かのリーダーたちが悔い改めたため、使徒パウロは慰めの手紙を送ります。

5000人が集まった時、人々は飢えていましたが、彼らを満たすためには200デナリオン分のパンが必要でした。ある人が持っているものを差し出しましたが集めても五つのパンと二匹の魚だけでした。この魚も良いものではなく通常であれば捨てられてしまうようなみすぼらしい魚でした。五つのパンと二匹の魚しかないという状況は最も貧しいことを示しています。しかし、主はこれらを持って5000人を食べさせる御業を起こされました。主は私たちの差し出す信仰により助けて下さいます。開拓教会の建築においてもお金がかかりますが、突然お金が降ってくるわけではなく、信徒たちの捧げる行いが必要になります。早く成長いや成熟してほしいのです。他の国で宣教するならば、宣教師の国出身の人はほとんどおらず、現地人で構成され現知事により支えているケースがほとんどです。受動的な態度ではなく、今持っている賜物やお金を通して御業が起こされるように。株式会社で株券を多く持っている人が影響力があるように、霊的な世界でも能動的に働いて人が与えられます。コリント教会よりも貧しい教会の人々によりコリント教会が経済的に支えられました。なんと残念なことでしょうか。

日本の多くの教会では捧げることについて無頓着です。ある教会では窓ガラスが割れていても何ヶ月経っても直そうとしませんでした。教会の長老たちが教会の財政から出すべきと主張して譲りませんが、彼ら自身は立派な家に住んでいました。牧師も50代くらいになると子供が大学に行きお金を必要としますので牧師を辞めざるを得ない場合が多く聞かれました。どれほど残念なことでしょうか。

垂直関係がないと水平関係もうまくいきません。善と悪の概念がないため、悪いことをしてもばれなければいいという愚かな考えです。罪意識がありません。関心がありません。それによって様々な問題が生じます。夫婦の関係が希薄で子供達にも悪影響が及ぼされます、兄弟姉妹の関係もうまくいきません。「関係ない」という人々が多いですがなんと冷たく孤独なことでしょうか。まるで太平洋のど真ん中の無人島に一人で立っているかのようです。「人」という字は二人が支え合っている状態を表します。漢字を研究すると面白い点がたくさんあります。「’義」という字は、我の上に羊がのっていますが、自分ではなく羊が上にくることで主から義とされるのです。「傷ついた」という言葉も使わないようにしましょう。我々の内にいる聖霊様はそんなに弱い存在ではありません。人を傷つけるのはサタンのみです。

戦前に神社に所属する人々が、キリスト教はアメリカの宗教だと決めつけて洗脳してしまいました。アメリカに対抗することはキリスト教を否定することになってしまいました。四日間の生活はいかがでしたでしょうか。我々自身がキリストの手紙です。明るい自画像、キリストの弟子としてのアイデンティティを持つべきです。
もしコリント教会がある程度成熟された教会であるならばパウロを通して何をやってきたのかと叱られるはずですが、コリント教会はあまりにも霊的に弱かったためそこまで叱られませんでした。不同の戒めがあることが素晴らしいですが御言葉以外にどこにそのようなものがあるでしょうか?家訓がある家計もありますが、誠心誠意といったとしても、悪い方向に向かっていって立ち行かなくなったらどうするのでしょうか?それでも誠心誠意やるのでしょうか?
孔子は自分が知らないということに正直になり弟子たちに知らないと言いました。地上のことも知らないのに天の国のことはなおさら知らないと言いました。成績が優秀な人は自分が知っていることと知らないことを区別でき知らないことに集中します。成績が悪い人は自分がすべてを知っているかのように錯覚します。中国では関係を大切にします。関係がよければすべて良いと考えます。

我々は生きたイエスキリストの香りを放つように任されました。4章5章ではそのために何をすべきか語られました。4章2節では、卑劣な隠れた行いを捨てなさいとおっしゃいます。我々の肉体は年をとれば老いてやつれていきますが、内なる姿はますます精錬されていきます。5章10節では、行ったことに応じて報いを受けるといいます。我々は二回裁かれます。まずは、天国か地獄かですが、次は、生前の体をもって主の御心にかなうことをどれだけやってきたか問われます。人が行ったことを主はすべて記録しておいて裁かれます。ですので、時間を無駄にせず正しく行いましょう。
また、すべて愛に基づいて行いなさいと言われます。しっかりきちんと行うことが良いわけではありません。練習するときにしっかりやるべきですが、本番でやっても結局いまくいきません。5勝17節では、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造されたものなのです。古いものが過ぎ去り新しいものが生じた。やってみたらわかるということです。6章では和解の使者になりなさいと言われます。2節で、タイミングを逃してはいけない、やってみたら主の時かどうかわかります。清いプライド、自画像を持ちなさい。7章では彼らを傷つけたことに対する弁明が書かれます。彼らを本当に愛する気持ちです。信仰は愛によってチェックされないといけません。8章から9章はけちなコリント教会に対する叱責です。エルサレムが大変な状況のとき、他の教会はお金を差し出したにもかかわらず、コリント教会は行いませんでした。8章2節、苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度のまずしさがあふれ出て、人に惜しまず豊かさとなった。これは信仰の体験がなければわからないことです。コリント教会は知識も賜物も経済もすべて整えられたにもかかわらず行わなかったのです。マケドニアの教会も見習いなさいと言われました。悔い改めは実を結ばなければ悔い改めではありません。悔い改めにふさわしい実を結べと書かれています。
10章11章では、パウロの愛にもかかわらず、パウロを非難して貶めたことを指摘します。偽預言者たちは、パウロは言葉は弱く出身もいい加減で実力がないと批判しました。それに対してパウロが弁明します。ヘブライ人であり、生まれながらのローマ市民権がありと自己弁護します。しかし、そのようなことを自慢するのは好まず、どれだけキリストために苦しんだかを語ります。当時のむち打ちは一回間違って打たれるだけで即死するほどのものを39回×5回もムチ打たれました。

ヨーロッパはかつて山賊があふれる野蛮な地域でしたが、福音が伝わったことで文明が生まれ先進国に発展しました。日本にも福音が伝わって霊的にも豊かな国になることを祈ります。