2013年3月29日金曜日

ヨセフとニコデモの信仰

■2013/03/29
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ19:28-42

★メッセージ

イエスキリストの死により聖所と至聖所を分ける幕が避けました。これにより私たちに完全な自由が与えられました。

33節 足が折られなかったのは旧約の預言が成就するためでした。成就されなかった預言は一つもありません。骨を折る必要がなかったのは、完全にイエスキリストが死んでいたことを示しています。検死官の役目もお持つ兵士が槍をイエスキリストの体に刺してみると血と水とがわかれて流れ出たと書かれており、イエスキリストが完全に死んでいたことを示しています。足を折る必要がありませんでした。ただ、本当の目的は、36節にあるように、旧約の預言が成就するためであります。

私たちは何もない時にこそ忠実に務めければいけません。まだ起きていないときに祈りを積んでおく必用があります。私たちの悪しき品性が十字架の前に死ななければいけません。主が最も嫌われるのは高慢さです。アダムとイブの罪も高慢さから起こりました。
イエス様は弟子たちの足を洗いながら謙遜のモデルとなりました。弟子たちの足を洗うことは聖書的なリーダーのモデルであります。
福音の確信はただイエスキリストを伝えることです。ヨハン教会でも私たちはただ聖書の御言葉どおりに従うだけです。聖書の中で福音を伝えて迫害されなかったことがあるでしょうか?

アリマタヤのヨセフはイエス様の死後、ピラトに願い出て死体を引き取り葬りました。ヨセフは今までは自分の信仰を隠していた人でしたが、突然、表に出て自分が用意していた墓にイエス様を葬りたいと願い出ました。合わせて6人の女性がイエス様の最後まで共にしました。この6人の女性たちはなぜ最後までついていき、また死後には墓にまた行ったのでしょうか?

私たちは決して自分の人生が無意味だとあきらめてはいけません。ヨセフやニコデモはイエス様がムチ打たれたときには黙っていて死んだ後から出てくるのでしょうか?裁判のときに弁護したらよかったでしょう。しかし、遅かったかもしれませんが、それでもイエス様と関わろうとしたことを聖書は高く評価しています。ヨセフの名前はここで初めて出てきますが、今まで信仰を持ち培ってきたからこそ可能でした。何か突然信仰が成長するわけではありません。何かをするときに遅すぎることはありません。悟ったときが実行するときです。イエス様は私たちと共にいます。十字架の救いの意味をもう一度考えてみましょう。少し足りなくても与えられたチャンスを逃さないようにしましょう。
伝道しようとすると人々は私たちの過ちを探そうとしますが、主は私たちの過ちを隠してくださいます。もし過ちがあるのであれば、主の前に告白し赦していただければ良いのです。