2012年12月8日土曜日

ドラマや映画に見る人間の死と聖書

最近ヒットしているドラマや映画を見ますと、恋人や家族が病気になって死んでしまう内容が多いように感じられます。今までは問題なく健康だったのに、あるとき、不治の病であることが明らかになり、本人も周りの人も苦しみ戦い葛藤しながら生きますが、最終的には亡くなってしまいます。

人の死というのはそれ自体が重いテーマであり、誰もが関心を抱くものだから、ドラマや映画にもしやすいのでしょう。それを見た人は何かを考えさせられ、また涙も流して、悲しさや寂しさを味わいます。

ところで、人が病気になって死んでいく過程を描く中で、本人にとってまた身近な人にとって、もっとも大きな問いは、「なぜ?」というものです。なぜ自分なのか、なぜ苦しまなければいけないのか、今までの自分の人生は何であり、これからは何のためなのか、そういった根源的な問いが、ドラマや映画の中に出てきますが、それにきちんと答えている作品はないように見受けられます。

たいていの場合は、「頑張れ」「必ず治るから」「朝の来ない夜はないから」と周囲の人が励ましますが、本人は自分がそう励まされるのを嫌になり放っておいてほしいと思って引きこもってしまったり、そんな葛藤の連続が描かれています。

「なぜ自分だけが病気になり死ななければならないのか?」
そんな根本的な問いに対して、わたしたちは答えを持っていないのでしょうか?

実は、その答えはわたしたちの中にはありませんでしたが、バイブルという一冊の本の中に見出すことができます。

ヨハネ9:1-3

◆生まれつきの盲人をいやす
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

生まれつき目の見えない人がいるのは、その人に問題があるからではなく、その人を通して神様の偉大さと栄光が現れるためだとバイブルは言っています。このあと、イエスは目の見えないその人を癒し、完全に目が見えるようになりました。神様は生まれつき目の見えない人に神様がどれほど大きな御業を行うかを現すための大きな使命を与えられたのです。

病との闘い、あらゆる葛藤の日々を通して、人は病や死に対して無力であることを学びます。医学がどんなに発展しても、多少、延命を図ったり痛みを抑えたりできるだけです。ただ祈ることしかできないことに気づかされます。金銭や知識、そして自分の力だけが全てと考えてきた人たちに、実はそれらが何の価値もないことを悟らせ、神様に対する飢え渇きを起こさせます。


また、バイブルにはこんな言葉もあります。

ヨハン12:24 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」


一人の人の死を通して、家族、友人、同僚、関係する全ての人々の考え方、生き方が変わります高慢な者は謙遜になり、無関心だった者は愛し合うようになります。

かつて、私の大学時代の親友Kが、ある時から精神的な病にかかり精神病院に入退院を繰り返していましたが、徐々に治ってきて仕事にもつけるようなり、さあこれからというときに、何らかの事故で亡くなってしまいました。私と同じく一人っ子であったため、両親の苦しみと悲しみはどれほどのものだったのでしょう。あまりにも辛くて今まで生活してきた場所にいることができず、引っ越してしまい、住所も聞かされてはいません。

彼がなぜ精神的な病になり最終的に死んでしまうことになったのか私は未だにわかりませんが、少なくとも彼の闘病生活を見ていた私は、自分は何でも人にしてあげられるという高慢な心から、自分は一人の友人さえ救うことさえできないという謙遜な思いに変えられ、イエス・キリストを信じるという恵みにあずかった気がしています。

両親からの最後の連絡には、「Kは牧師に見守られて昇天しました」とありましたので、彼の両親も
信仰を持って救われたのかもしれません。

ドラマや映画の中で死に行く主人公がバイブルに出会っていたらと、何度も思わずにはいられないこのごろです。